僕秩はてな

才能について考えたりしています。

時代と才能のゆくえ

僕より少し上の時代、本当に才能がある人はゲーム業界にたくさん入った印象がある。

 

1980年台のファミコンから、子どもたちはゲームの熱狂の中で育ち、大人には「ゲームなんてくだらない」と蔑まれながらも、本当はそれが世界を変え得るとわかっていたからだ。

 

そして僕らの世代、本当に才能がある人はIT業界にたくさん入った印象がある。

 

1990年台のインターネットの熱狂に触れ、大人には「インターネットは恐ろしい」なんて蔑まれながらも、本当はそれが世界を変え得るとわかっていたからだ。

 

 

では僕の知る以前、才能がある人はどんな業界に行っていたのか?

 

おそらく、1960~1970年台はメーカー(SONYや松下など)に入り世界を制し、

朝日新聞1970.11.02朝刊19面「現代っ子の「なりたい職業」は…」
男の子のベストテン 1位 エンジニア 

もっと前の高度に日本が変わっている時代は商社だったりエネルギーだったりしたのかもしれない。

 

そして、戦前はやはり軍人が人気だったらしい。

中学校・実業学校・女学校生の「希望職業」(1933年)

 

 

いずれの時代も、トレンドは必ず変わる。

 

人に理解されなくても先行して先に進んだ「先行者」だけが大きな利益を手にし、「一般の人々が流れ込んできた時、時代はもう次に移っている」ということが起きるのである。

 

2015年以降、「なりたい職業ランキング」にYoutuberが入って来たりしているが、現在の本当に才能がある若者が目指す職業は何だろう。

ロボットか、AI、それとも別の何かだろうか?

 

 

そう考えていた時、もう一つの可能性を感じた。

悲しいことではあるが、現代の本当に才能がある若者はロボット、AI、どんなジャンルを選ぶにしても「日本を脱出する」という追加の選択肢がかなり一般的になっている気がするのである。

 

終身雇用は崩壊し、高齢化社会も解決の目処なし。

人々が「どの業界に入ればいのか?」だけを考えれば良かった時代は終わり、もう一段階上の階層、「そもそもこの国でいいのか?」ということも含めて考えなければいけない時代になっているかもしれないのだ。

 

僕の周囲でも少なくとも8名、本当に才能があり時代に敏感な人達は、日本を離れて海外で生きることをあっさり決めてしまった。

 

「彼らこそが先行して大きな利益を手にする先行者なのかもしれないな…。」

 

間違いなく転換期の今、そんなことを考えたりしています。

 

最新作=代表作の難しさ

 

ものを作っていると、当たることも外れることも、そして時には信じられないくらい大当たりすることもある。

 

他人に見せることを前提にしていないアウトサイダーアートを除くと、多くの人が人に評価される大当たりを目指してものづくりの勝負を続けているわけだが、今日は一度当たったあとの話。

 

 

一度大ヒットとなる「代表作」ができると、その後の人生は一見楽になるように見える。

例えば作曲家なら名前が売れ、「○○(代表作)のような曲を作ってください」という依頼がたくさん来るようになるし、初対面の相手が「○○の作者さんですか!」と自分を知っている状態も多くなる。

 

著名になり、収入が増え、人間関係が変わり、いいことづくめに見えるが、問題はそこで人生が終わるわけではなく、その後も「ものづくり人生」は続くということ。

代表作以後の戦いの中で、過去の大当たりが徐々に呪いのように作用する様子を、僕は本当にたくさん見てきた。

 

 

以前の大当たりに対し、次の作品を更なる大ヒットで塗り替えられれば話は簡単だが、世の中はそれほど易しくはない。

代表作の当たりが大きければ大きいほど、「過去の自分を超えられない現在の自分」という絶望的な状況のフタが開くのである。

 

流行語大賞を取ったお笑い芸人、一度だけオリコン1位を取った音楽家、一度だけ100万部売れたマンガ家、一度だけスタンプがバカ売れしたイラストレーター、過去にテキストサイ ブログが大ヒットしたブロガー、etc...

 

次の作品も、次の次の作品も、いくらやっても前のヒットを超えられない。

過去を超えられない状況が続くたび、自信を失い沈んでいく心。

もがきながら戦い続けても10年や20年はあっという間に過ぎ、肉体は老化が始まる。いつの間にか「20年前にあのヒットを出した人ですか!懐かしい!」と、半ば憐れむような評価に変化する周囲。

 

一度手にした栄光が大きければ大きいほど、それを超えることは不可能問題に近づき、自身の自信喪失や他人からの憐れみは増す。いわるゆる等価交換なのだろう。

 

 

成功さえしなければ、こんなに沈むこともなかっただろう。

だけど、成功するためにものを作っていたのではないのか?

 

 この呪いを受けない方法は2つある。

ひとつは初めから物を作らないこと。

そしてもう一つは

 

最新作=代表作となるように戦い続けること

 

である。

事実、10年単位でトップを走り続ける天才は世の中にいる。

 

だが、人間誰しも限界がある。次はより高く、次の次はさらに高くというインフレはいつかどこかで 必ず破綻するのではないか?

 

ものづくりは、そんな バッドエンドしか無い分岐ゲームのようなものだって事はわかっているけれど。

 

それでも、

最新作=代表作になればいいな、と愚かな夢を見ながら、僕は明日も物を作って生きていきたいと思う。

 

「ピンポン」と才能と幸福論

 

僕は松本大洋さんの「ピンポン」という作品が大好きだ。

 

漫画原作はもちろんだが、実写映画は100回以上見て全セリフを暗記したし、2014年に放送された湯浅監督のアニメも素晴らしかった。

 

数十回繰り返し見た時点で「なぜこんなに惹かれるのか?」を自分なりに分析したのだが、そこで考えて出た答えは

 

「ピンポンは才能論だった」

 

ということだ。

それだけではわかりにくいのでどういうことか説明しよう。

 

 

 

ピンポンには5人の才能ある若者が登場するが、この5人の才能を順に並べると

 

才能多い

・ペコ

・スマイル

・ドラゴン

・チャイナ

・アクマ

才能少ない

 

という順番になる。

高校生で一番強いドラゴンとスマイルは順番が逆では?と思う人もいるかもしれないが、劇中ドラゴンがスマイルの才能に嫉妬していること、漫画版の最終回で「君なら優れた選手になれたろうに」とスマイルの引退を惜しんでいることなどからスマイルの順位を上とした。

 

そして、ピンポンが才能論を示すのはここからである。

先ほどの才能順の横に、卓球を諦めたかどうか?(漫画版準拠)を付けてみる。

 

才能多い

・ペコ…現役

・スマイル…引退

・ドラゴン…現役

・チャイナ…引退

・アクマ…引退

才能少ない

 

 

そして、ここに最終回時点で本人がしあわせかどうか?を付け加えてみよう。

 

 

才能多い

・ペコ…現役…幸せ(ドイツリーグへ)

・スマイル…引退幸せ(教師へ)

・ドラゴン…現役…不幸(代表落選)

・チャイナ…引退幸せ(コーチへ)

・アクマ…引退幸せ(第一子誕生)

才能少ない

 

 

わかるだろうか?

最終回時点で不幸なのは高校最強を誇ったキャラ、ドラゴンだけなのである。

 

これが指し示している教訓はおそらくこうだ。

 

 

「激しい競争の社会では、本当の天才一人だけが生き残り、あとは全員死ぬ。だから才能がない人は一刻も早く勝負を諦めた順に幸せになる」

 

 

残酷すぎるが、あまりにも現実味のある結論。

 

事実、一番才能が乏しいアクマは真っ先に勝負を諦め、卓球から逃げた。

逃げたから不幸になるわけではなく、真っ先に結婚&第一子誕生が決まり、誰よりも幸福になる様子が描かれている。卓球では負けたが人生では救われたのである。

 

逆に中途半端に才能があったドラゴンは悲しい。

自分では勝てない天才ペコを目の当たりにしながら中途半端に卓球にしがみついているため、代表落選の屈辱を味わい、平凡に落ちていく自分に絶望する悲しい様子だけが最終回に描かれる。

 

ポイントは、「才能と幸福度は関係ない」というところで、凡人の僕らにも救いがあるオチではあるのだが、その幸福は「人生をかけてきた勝負を降りる」という大きすぎる代償と引き換えにしか手にできないのだ。いわゆる等価交換である。

 

 

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僕は、最近ではLINEスタンプなど、若干ものづくりをするので、まだ勝負の世界にかろうじて踏みとどまっているつもりでいるが、1位が取れる才能ではない。

 

ヒットしたスタンプのエヅプトくんは4位、かなり売れた「肉くん」も2位が限界だった。どうしても1位が取れない。世の中に僕よりもすごい天才は間違いなくいる。

 

要するに僕の才能はピンポンの劇中人物ならチャイナ、もしくはアクマという能力だったのである。

 チャイナもアクマも、一般人から比べればだいぶ卓球ができる。100人に一人の才能と言ってもいいだろう。だが、上には上がいる。

 

 

ピンポンを見るたび、「僕も同じだ…」と強く思う。

そしてピンポンは誘惑する。「勝負を捨てて降りれば幸福にしてやる」と。

 

 

 世界は残酷だ。

人間の才能には生まれながらに絶望的な差があるし、本当のピンチになった時、ヒーローなんて絶対に来ない。

 

 

それでも戦いを続けるのか?

 

 

そんな鋭い刃物を突きつけてくれるピンポンが、僕は大好きだ。

 

エムグラム診断結果が同じ人がいた

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少し前、スパム的に大流行したエムグラム診断

 

僕も周りの人とやりながら結果を見比べたりして楽しんだ。

 

エムグラムは血液型占いのようなランダム性の高い運試しと言うよりは、就職の時に使ったSPIや世界的に有名になったストレングスファインダーに近く、大量のサンプルから統計的に結果を割り当てているフシがあり、実際「当たっているなぁ」と思う結果も多かった。

 

100以上ある質問数とある程度 納得感のある結果が出ることが、ここまで流行した理由なのだろう。

 

そんな中、驚くべきことが起きた。

 

 

僕とほぼ完全一致する診断結果を持つ人が身近にいたのである。

 

 

 

 

知人女性の診断結果なのだが、これを僕のものと比較した画像がこれだ。

 

 

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ほぼ同じ。

 

「意思」の部分に若干の差異があるものの、解説の日本語部分に至っては一文字違わず完全に同じだった。

 

そして、さらに驚くべきなのは共通の知人に聞くと「僕と彼女の性格は全く違う(ようにみえる)」という事実である。

 

僕…コツコツ努力型

彼女…天才型

 

僕…引きこもり気味

彼女…高いコミュ力

 

僕…潔癖症ではない

彼女…潔癖症気味

 

 など。とにかく全く違う。

 

 

「じゃあこんな診断信じなければいいじゃん」と、言われればそれまでだが、無理矢理の後づけで思い当たる節を考えると、実は一つだけ思い当たる節がある。

小学生の頃の僕は、現在の彼女とかなり似ていた可能性が高いのである。

 

僕は中学の時に自分の才能限界を感じてから、自分の才能以上のアウトプットをするためにかなりドーピング的な道に踏み込んだと自覚している。

勝つためであれば本意ではない努力もするし、研究もする、嫌いなものも見るし、実力以上の結果が出せるなら…と自分の戦い方までも調整をしてきた。

 

もともとは天真爛漫だった幼少期の自分と、ある時期明確に別れを告げて生きてきたのである。(中二病的な言葉で言う"闇堕ち"というやつだと思う

 

もしも僕が中二の時に謎の覚醒をしていなければ、彼女のような生き方をして、彼女のような大人になっていたのかもな…。

 

そんなパラレルワールドを感じた体験でした。

 

みなさんも、自分とそっくりな診断結果を持つ人を見つけ出してみると、「もし自分が別の人生を歩んでいたら…?」という別の未来を感じられて面白いかもしれません。

 

 

 

※この診断、双子の結果とかはどうなるんだろうなぁ…。

 

 

 

天才と便漏れ

 

僕は特殊能力者の話を聞くのが大好きだ。
そのため、会話している相手に「特殊能力者っぽい雰囲気」を感じると決まって聞く質問がある。

「ところで、あなたはうんこが漏れますか?」

というものだ。

 


唐突な質問に思えるかもしれないが、僕が今まで会った1000~数千人という小サンプルの中では、天才的な芸術力、コミュニケーション力、運などを持つ人は「うんこを漏らしている確率が一般より高い」ように思えたのである。

過去の偉人ではフランスのルイ14世が会議中にずっとうんこを漏らしていたと聞くが、そこまで極端ではなくても、うんこが漏れる特殊能力者は多い。

理由を無理やりこじつけるのなら、

 

  • 創作などの集中力が常人より強く、トイレにいくのを忘れる
  • 慢性的に胃腸が弱く、爆弾を抱えながら生きているために繊細な能力が身についた
  • そもそも「うんこを漏らしてはいけない」という一般常識が通用しないため、常識破りの成功をおさめることができる


と、いうように便漏れの天才を擁護する見方もできる。彼らはうんこと引き換えに才能を手にしていたかもしれないのだ。いわゆる「等価交換」である。

 



ところが、だ。
先日恐るべきニュースを発見した。

 

mainichi.jp


なんと、毎日新聞の記事によると現代成人の5人に1人が便漏れをしていたのである。


僕の会ってきた便漏れの天才はみな「数千人に一人」と言える素晴らしい才能を持っていたが、人類全体の5人に1人が便漏れとなると便漏れの絶対数が多すぎて話が変わってくる。

天才も一般人と同じく「5人に1人は便漏れをしていただけ」なのではないか。
ベン図で表すとこのような具合だ。

 

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天才の便漏れ率が「5人に1人」を超えていなければ、便漏れと才能は何の関係もなかったことになる。何が等価交換か。


僕は便漏れと天才の相関関係に固執するあまり、ところ構わず「うんこは漏れますか?」と聞いて回っていたが、毎日新聞の記事から導き出される事実はおそらく一つ。



僕が知り合って感動していた「便漏れ人」のほとんどは、ただ便が漏れるだけの普通の人だった。


ということだ。

 


天才に会いたくて、天才を追い求め、ようやく到達した局地とも言える「便漏れの人々」を探す旅。

例えそれが偽りの道だったとしても、失った時は戻らず明日は来る。

こんなにも残酷な世界で、出会うことができた便漏れの人々と共に、僕は次の極地を目指したい。

 


真の才能を求めて。

 

僕の見た秩序。のヨシナガです。

こんばんは。>挨拶

 

久しぶりにブログを書こうと思ったのですが、LINE BLOGにログインできないという悲しすぎる事態に陥ったため、試しにはてなブログを作りました。

LINEの方では貴重な公式バッヂまでもらっていたのに、放置しすぎた…

 

僕が人生でよく考えている「才能について」など、ためしに1週間くらいブログを書いてみようと思います。

 

1週間続くかどうかわかりませんが、よろしくお願いします。