僕秩はてな

才能について考えたりしています。

天才と人間性

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先日、ラジオの収録で初めてお会いした方のツイート見て思い出したことがある。



僕はコツコツ努力型の人間なので全く天才ではないが、なぜか昔から「天才」と呼ばれることが多いのだ。


ラジオの例のように初対面の人はもちろんだが、学校のクラスやサークルから始まり、会社のグループ、趣味の合う友達、一緒にイベントを企画するチームなど、お互い全く面識のない人々からことあるごとに天才だと言われ続けてきた。
なんと、あだ名自体が「天才」になってしまい全く本名で呼ばれないグループすらある。



だが実際に僕は天才ではないし(二度目)、自称「天才」はむしろ経歴詐称のようになってしまい良くないと思っているので、一度も自称したことはない。どうしてこうなったのだろう。

はじめは、他の人も僕と同様の割合で天才と呼ばれているのではないかと思い観察してみたのだが、いくら見ても他人は全然呼ばれていない。呼ばれているのは赤ちゃんやペットくらいだった。

つまり、僕には「天才ではないが、他人に天才だと誤認させる何か」があるのではないか?

その詐欺的とも言える能力が何なのかをずっと考えていた。



 

パッと思いつくのはこのような要素だ。

・受け答えの速さ
・アイデアを出す速さ
・出したアイデアの強度
・実行に移す力
・未知のジャンルを学習する速度

いろいろ可能性はあると思うがどれもピンとこない。自慢に見えないように何度でも書くが、僕は努力型の人間なので別に天才ではないのだ(3度目)。ものづくりや学習能力の偏差値は69~70くらいなので低くはないが、僕よりもすごい人は学年に何人もいる。

 

 

そんな中で最近、「存在を天才たらしめる条件」めいた要素に到達することができた。

 

それは

・意味がわからなく「心の奥から理解し合うことが困難?」という空気を出している

人間っぽくない

ということである。

 

先の例で天才と呼ばれていた他の存在に赤ちゃんやペットを挙げたが、それらも「相互理解の困難さ」という点では同じ。

つまり、「こいつは仕事がそこそこできるかもしれないが、相互理解は困難だな」と感じたとき、人は他人を「天才」と呼んでいるのではないだろうか?

そもそも天才(genuis)の語源が「神性」らしいので「人っぽくない」のは当然とも言える。赤ちゃんもペットも人っぽくはない。僕もそうだったのだろう。ただ、印象がマイナスだと人から「天才」とは呼ばれないっぽいので、僕がかろうじてプラス側だったのは救いである。


 

 まとめ  そもそもこの結論に到達したのは、ここ数年で自分の人間性が高まると同時に「天才」と呼ばれる度合いが下がったように思えたのがきっかけだった。

僕が実際に何らかの才能を失ったのか、それ以外の要素があるのか…?

その結論が「相互理解の困難さ」だ。

もちろん、僕の才能も失われたのかもしれない。それでも人間らしく生きることに意味はある気がする。

天才でないことには「天才と呼ばれるのと同じか、それを上回ってもおかしくないほどのメリットはありそうだ…」と、天才でない今の僕は思っているのである。



 おまけ  蛇足だがこの仮説、逆は真ではない。
(天才と呼ばれるすべての人が「理解困難」なわけではない)

天才と呼ばれる人の中には、芸術その他に爆発的能力を持ちながら、人間的にも完成された複数スキル持ちがたくさんいるし、ダリさんのように「自分が天才である」というパフォーマンスを繰り返す努力により世間に「天才」と呼ばれるようになった人もいる。こういう人も根本の心情理解はしやすいし、きっとコミュニケーション力は高いだろう。

本記事のケースは、あくまで「僕の体験を元にした一例」と捉えていただければ幸いである。